孫人(まごと)

孫人(1910〜1976) 母たいと孫人

名声を世界にとどろかせた嘉門次、病におかされながらも立派であった嘉代吉、登山の歴史から見れば、二人とも黄金塔をうち建てた山人であったが、世の中の風は常に冷たく非常である。山の名門といわれた上條家もその風が吹きあれたのである。

温厚な紳士であった嘉代吉は、借金を残して逝った嘉門次のため、必死の労働をした。彼は家のことを思うにつけても、どうしても金銭的に楽になりたかった。鉱山の話やその他いくつかの投機の話に、つい心をうつしてしまった。そして資力を出しつくしてしまったときに破局が訪れる。嘉門次が上條家に入ったときには、御判屋は小金をためかなりの土地を所有していたのであるが、嘉門次と嘉代吉の二代の間に、土地はすべて人手にわたり、街道に面した御判屋の大きな母屋もついに人手にわたってしまった。子沢山の上條家は、かっての物置きに住むはめになったのである。ちょうど孫人がかぞえ年で七才のときというから、祖父嘉門次の死後すぐのことであろうか、この二回にわたる没落で、家庭はどん底の生活になってしまった。父を失い家屋敷を手ばなした嘉代吉は、傷心で嘉門次小屋に登って、あまり家へ帰らなかったのではなかろうか。孫人は嘉代吉と母たいの三男として、明治四十三年(一九一〇)二月二十四日に生まれた。父が独り上高地で傷心のまま逝った時は、多感な九才であった。

弔いに集まった人々は、幼い孫人の頭をなでながら、父や祖父の立派さをほめて、お前もそれより立派な山案内になれと、口をそろえてすすめるのであった。孫人は歯をくいしばって、泣き出したいのに耐えた。心の中ではここまでみじめな生活におちこんでしまった原因を作った父や祖父が、憎らしかった。そのつらさに耐えて、学校に通った。成績はすぐれていた。家は母のたいと姉たちが必死で蚕を飼ったり、日銭をかせぐ仕事に精を出していた。孫人も暇をみつけてそれを助けた。

ガイドになったころの孫人

父がなくなった頃から、日本アルプスの高い山々を求めて登山者が、島々から徳本峠への道をたどっていった。信濃毎日新聞の大正八年十一月二十九日付の記事に、この夏に本県の高山俊岳を跋渉したものは、雲のごとくに多くあった。その総数において昨年の九二,五六四人に比して、二六,五七二人多い、計一一九,一三六人にのぼった。と記されていてそのうち槍ヶ岳四二五人、乗鞍岳一一四人、焼岳五八二人、穂高岳九六人の多数であった。

孫人が学校に通っている間に、嘉門次小屋は、嘉代吉が死んで縁起が悪いということから、現在の小屋の位置に建てかえられて、義理の兄上條辰美夫妻や、嘉代吉の従兄の義市などが釣りのために使っていた。槍沢小屋をきっかけとして、常念小屋、殺生小屋、大槍小屋、大滝小屋など山小屋が続々と親切されていたし、上高地には養老館をはじめとしていくつかの小屋ができた。大正十一年(一九二二)には西糸屋売店が開かれて「上高地案内組合」がそこにおかれた。登山もかなり便利となったため、上高地周辺は活況を呈していた。山案内の仕事は最も収入になる仕事として定着していた。

孫人は学校を終えると、上の学校へ行きたい心を押さえて、山案内の修行をはじめた。年端もいかない少年の肩には、荷は重たくてつらい日々だが、さすが名門の子、それにたえぬいた。義兄の辰美とその兄の上條峰次の下について案内の勉強をしたのである。

15才でもう立派なガイドとして、案内人組合の名簿に名をつらねたのである。このころには明神池畔の嘉門次小屋には、母のたいと姉の金美が夏中入って、小屋の経営にあたっていた。宿泊はせずもっぱら茶菓子の接待であったが、生計をたてるには、ほど遠い収入でしかなかった。

山案内として独立した孫人は、祖父や父の血をうけついだためか、精気がみなぎっていて、疲れを知らなかった。

このころの登山界は、第一次黄金時代とでもいおうか、大学や高校の山岳部がより困難ヴァリエーションルートの開拓を始めて、続々と成功していたし、冬期の登山も盛んで彼の力が必要とばかり、名指しで登山に動向を求めてきた。おまけに大正の末期から昭和の時代に移ると、登山という行為は体を鍛え精神を練るとして、ますます登山人口を増やし、岩登りの時代となる。ここでも孫人の天分は花ひらいてより困難な岩登りを、やすやすとやってのけるのであった。その孫人を筆頭として昭和八年いは、島々口スキー登山案内人が、十五人誕生したのである。このころには孫人は冬期も嘉門次小屋にいることが多くなり、秋口にはいつもかなりの越冬食糧などを荷上げしているのである。

彼の登山の技術は、まさに天才といっても過言ではない方で、多くの著名な登山者たちを案内し、友好をあたためたのである。行動の範囲もすばらしく広く、北アルプスはもとより南アルプス、中央アルプス、遠くは谷川岳まで足をのばしている。

知名度では祖父や父をしのいだといえる。その力量は登山のときはもちろんのこと、激増した遭難のときには、より困難な技術を要求されることが多く、孫人はその遭難の救助作業でまたなくてはならない男となったのである。案内人として鋲靴をはき、チロルハットに、ニッカーボッカスタイルで、ザイルを肩にかけた彼の得意げな写真が、家にはたくさん残っていて、絶頂期の彼をものがたっている。昭和十二年小池よし江と結婚、孫人27才のときである。

結婚を機に困難な登攀をやめる山登りの多い中で、孫人の案内人として登山家としての精神は、ますます昂っていき、神がかりともいえる登山を次々とものにしていった。妻よし江が当時のことをふりかえって、孫人は当時ほとんど家に帰らなかった。帰ってくると登山家たちが集まってきて、大騒ぎな時代であったといっている。

孫人の案内人としての登山は、それを全部列記することは困難というよりも、不可能である。そのなかで目ざましいものをいくつかあげてみると、彼の天分が理解できる。

涸沢にて 右から二人目

昭和五年、小島勘次(同志社)と涸沢ー直登ルンゼ東北稜ージャンダルム飛騨尾根。

昭和十三年、松濤明と積雪期の岳沢から西穂高岳

昭和十四年、松濤明と秋に滝谷第一尾根試登ののち、厳冬期の同尾根登攀。

昭和十六年、一高山岳部と厳冬期の槍ヶ岳。中村徳朗(一高)と厳冬期の霞沢三本槍。

遭難救助に出動して数々のエピソードを残している。その天才ガイド孫人もまた、暗い運命にもてあそばれる。結婚後九年の昭和二十一年、前穂高で遭難した学生の救助作業の指揮をしてから後、登山会に彼の名はほとんどみられない。病魔が彼の体を蝕んだのである。彼は家にこもって養生をつづけていたのである。病は肉体的なものでなく、精神的なものであったので、小康をとりもどすともう案内はせずに、山小屋の仕事をしたり営林署の山仕事や道路工事の現場に出て、働いていた。孫人が倒れると家計も苦しくなるのは当然で、妻よし江や子供たちの苦労は、またふりだしにもどってしまった。長男の輝夫はまだ幼く、家業をつぐことができないため、あけたりあけなかったりの状態であった嘉門次小屋の管理を、広瀬ヨシに依頼した。嘉門次小屋は毎年開店して、登山者にそばや茶菓子を出してきた。

時の流れるのは早く、昭和三十七年には、孫人は長男輝夫とともに西穂山荘にのぼった。輝夫は山小屋経営者の見習いをして、嘉門次小屋の再開にそなえたのである。

翌三十七年に孫人は五十二才であったが、再起不能の病をうけて病床についてしまったが、長男輝夫は姉珠美とともに、嘉門次小屋の再経営をはじめた。

昭和五十一年七月十三日、長い闘病生活をつづけていた孫人が、家人の献身的介護のかいなく病院で、永眠した。六十六才であった。

輝夫は観光ブームと呼ばれる時代の中で、精力的に小屋の経営をつづけ、昭和四十年に小屋を増改築したが、本年(昭和五十四年)ひとまわり大きな嘉門次小屋が改築された。奇しくも嘉門次が上高地に小屋を持ってから、ちょうど一〇〇年の吉日であった。

思えば波瀾に満ちた三代の時代は終わりをつげた。彼らに多くの登山家たちは拍手をおしまないであろう。しかしこの名声にみちた三代の陰には、それこそ必死でその家をもちこたえてきた三代の妻子があったことを忘れてはならないのである。その多くの人々はすでにこの世にはいない。輝夫をはじめとして残された人々は、嘉門次小屋とともに未来をめざすのである。

黄に紅にあるいは紫に、山々は今秋を迎える。三代にわたる偉大な山男たちの霊に、安らかであれと祈る。

洋輝院仙翁釣月清居士 (嘉門次)

功雲院夏山良勇清居士 (嘉代吉)

徳照院祖岳静禅清居士 (孫人)

ー合掌ー

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