嘉代吉

嘉代吉(1871〜1919)

島々谷と梓川の合流地点にある島々は、村のはしに立って大きな声をあげれば、村中にその声がとどくほどの山あいの小さな村であった。水田はなく斜面には桑の畑が広がっていて、養蚕が盛んであった。男たちの大半は杣仕事で生活をたてていたが、営林署の仕事は以前のように大規模でなかったので、生活は困窮していた。

明治四年(一八七一)八月十日。上條嘉門次と妻さよの間に男児が誕生した。二人の間にはたった一人の子であった。名を嘉代吉という。嘉代吉は、子供好きの父と母に育てられ、すくすくと育っていった。近所の子供たちと連れだって学校に通った。桑のみを食べたり鬼ごっこをしたり、子供たちはよく遊んだが、嘉代吉はおとなしい子であったようである。学校に通いながら、ときどき家にいる父と桑を摘みに行き、母と蚕の世話をした。父嘉門次は蚕と蛇は大の嫌いで、そばに寄ることもなかった。父嘉門次は、嘉代吉が九才のころから上高地の小屋にこもって、年に数回しか帰らなかった。母を助けて昼夜を問わずよく働いた。山へ薪を負いに行き、蚕を飼った。学校を出た彼は、ほとんど島々の家にいて、夏は小林区署のさまざまな山仕事と、冬の炭焼きなどのかなりきついろうどうに従事して家計を助けた。というよりも家計は若い嘉代吉の両の肩にかかっていたのである。

御判屋の隣が小林区署の建物であったので、もの静かでよく気のきく彼は、他の人々よりも可愛がられたし、仕事もさせてもらったであろう。そして仕事の暇なとき、仕事の途中などで父嘉門次の小屋へしばしばたずねた。たくましく育っていく息子に、嘉門次は手とり足とり、カモシカを追うこと鉄砲を撃つこと、イワナを釣ること、山での生活のありとあらゆることを、教えこんだのである。二十才を前にして嘉代吉は、すばらしい炭焼であったし、たくましい猟師となっていったのである。

談笑する嘉代吉 左から二人目

男児は二十才になると徴兵検査を受ける義務があった。山できたえあげた嘉代吉の心身は健康そのもので、みごと絞首合格であった。そして明治二十四年十二月に、高崎の歩兵連隊に入隊した。 軍隊の訓練は厳しいものときまっているが、真面目な彼は、一生懸命に射撃や教練にはげんで、優秀な成績で兵隊生活を送り、二十六年に一度除隊で帰宅するが、翌二十七年日清戦争が始まり、彼はさっそく招集されて参戦し大陸各地を」転戦している。戦火のさなかに上等兵に昇進している。明治二十八年六月に帰国除隊して家へ帰る。

嘉門次が、炉端で登山者に語る話の中に、「嘉代吉は、虜順攻めの時だが砲兵で呼びだされて、雪の中で沢山の兵隊さんと死にかけた時だぁ、山案内をしているお陰で、生木をたく術を知ってるだでじきと木をたいて、皆の衆も助かった。その生木火で勲章をもらうたなぁ、ありがてえこんだ。」と嬉しそうであった。事実この戦いでの働きによって、勲八等白色桐葉章をうけたのである。

その年に嘉代吉は、上条たいと結婚した。軍隊の訓練に加えて、いくたびかの戦火をくぐってきた青年は、ますますたくましく自信にみちて、祖父母、母、女房と一心になって働いた。上条家の大黒柱は嘉門次でなく、嘉代吉であったといっても過言ではない。

一方上高地で暮す父のもとへも、足しげく通って山の地理を学び、父嘉門次が山案内するときは、荷かつぎ人夫として働いたことが多かったと思われる。軍隊で身につけた教養もまた、しばしばやって来る登山客や外国人の登山者を受け入れるのに、プラスとなっていたと思われるのである。仕事の比較的暇なときには、父子をつれだってカモシカ猟にも出かけたであろう。気心知れた父と子、獲物を山わけする必要もないのであるから、イワナ釣にも腕前をあげた。嘉門次のつりあげたイワナを背負い下ろしたこともうなずける。山案内も上手だったと嘉門次が自慢しているくらいであるから、たびたび山案内として山を歩いていたことは、かくされた事実である。

明治三十七年(一九〇四)日露戦争がはじまった。優秀な兵であった彼にはすぐ招集令状が舞いこんで、今度は旭川の連隊に入隊したのである。大陸にわたると激戦につぐ激戦で、旅順の戦で胸部と左手を負傷して、内地送還され、胸部に残された銃弾のために、いくつかの病院を転々としたが、銃弾は摘出されずに、傷が治ったので退院して、三十八年に除隊して家へ帰ったのである。勲七等の勲章とほうびの金をもらっている。

嘉代吉はだんだん上高地に滞在する日数が多くなってきた。父嘉門次を指名する登山客が多くなると、この客を結びつける橋わたし役をやっている。父の高名をますます高揚するような登山客、外国人の登山者などを選択するようにして、父を案内人にして自分は荷負いをして伴登しながら、父を助けたことが多かった。辻村伊助・小島烏水・鵜殿正雄・高野鷹蔵など初期の登山者として著名な人々を、嘉門次が案内してますます名案内人として、名をとどろかすのは嘉代吉の力が大きかったと断言するのである。また彼自身も多くの登山者の案内をしたことは、云うまでもない。人々の登山記の中に彼の名がないからといって、おどろくにはあたらない。案内人も荷かつぎ人夫とよばれ、あまり人間的なあつかいを受けない労働階級であるから、よほどのことがないかぎり、その名前があらわれることは少ないのである。

嘉門次小屋の嘉代吉

初期の登山家たちが、後進のために書いた登山案内に「上高地において、信用ある案内人としては嘉門次父子をおいては、稀である。―嘉門次なら命を託しても大丈夫と云われる位の、剛の者である。―嘉門次の子息の嘉代吉というのも、中々日本アルプスに通暁しているそうである」と書かれたりして、その信用もなみのものではなかった。

また芥川龍之介の未刊の「槍ヶ岳紀行」の中に、嘉代吉が顔を出す。そのくだりははぶくが、その中で松本通いのガタ馬車の馭者が嘉代吉のことを次のように評している。「あの人にたのみゃあ上等だ。岳の事なら、縁の下のごみでも知っているから―」。

軍隊あがりの嘉代吉は、非常に几帳面な性格で礼儀ただしい男であった。このような男が山案内をしたら、必ずメモをとっていたと思われるのだが、失われてしまったのだろう。残念なことである。記録として報告されたなかには、嘉代吉の名はわずかにしか現れないが、常に神仏に手をあわせ、全力で道をひらいて行くさまが書かれている。登山客と別れるときに、つらい旅で寝食をともにした事を思うのか、涙を流したこともあったそうである。嘉代吉を知る土地の人々も、彼の人となりをのべるのに言葉を惜しまない。

嘉代吉は、家の蚕が忙しくなると、家にいて働いた。案内もこの時期はやらなかったようである。大正六年十月父がなくなると、親想いの彼のことであるから、ひどく落胆したに違いない。父のいなくなった小屋にひとり住んで、山の仕事をつづけた。彼を知る人々が、その頃の彼をなにかさびしげであったと語っている。

雪倉岳にて 中央 嘉代吉

戦争で受けた傷のためか、時々非常な腹痛におそわれたらしい。父の嘉門次は「嘉代吉は四十四になりますだ。身体は六尺に近ぇやつでね、毎月山へ荷持ちに来るだが、日露戦争の鉄砲弾が腹に残っているだで、折々痛むって困ってますだ。」と大阪毎日の記者に、涙をためて語っている。

一人傷心の日々を送った嘉代吉は、大正八年七月嘉門次小屋で、持病が発したのか一人でさびしく死んだ。嘉門次が没してから、わずか二年の命であった。もう少し生き長らえていたら、三男孫人の山をかける姿をみとどけられたのに、まことに惜しい星であった。父に似て口少なく静かで、好人物であった。「お父っさまは、背がすらりと高く、優しい人で、子供の時には、小言いわれたこともありません―」。三女かねみの言葉が、すべてをいいつくしている。

カテゴリー: 三代の山 パーマリンク