嘉門次(1847〜1917)

嘉門次(1847〜1917)

梓川の流域の大野川・稲核・島々・大野田の入四ヶ村は、松本藩の御用林の仕事に従事する杣人の集落である。杣たちは斧頭や仲間頭にひきられて、五月から十月までの長期間を、上高地の杣小屋で集団生活をしながら、木を伐り梓川の水を利用して、松本まで搬出する仕事に専念し、奥山に積雪のある冬の間は、炭焼や白木類の加工をしたりして、細々と生計をたてていた。

年々の伐採により、奥山からの出材量が少なくなるのは当然のことで、幕末の頃には最盛期の十分の一ほどしか仕事量がなく、かさねて天明・天保の凶作によって、この山あいの村々では、病や飢えで倒れるものや離散するものが続出し、人口は減少を一途を辿り、村人は困窮した。仕事にあぶれた村人は、ときには尾根や峠を越えて、中房川や高瀬川の奥地まで、出稼ぎに出かけることもあったようである。このような時代背景を、今は知る人も少ない。

岩をかむ清流に橋が架かっていて、水面をかすめてくる風は冷たかった。橋のたもとの小さな村の板葺屋根の上には、重たげな丸石をならべている。ほんのときおり通りかかる人々の顔には、まずしい生活がきざみこまれていた。今の安曇村明ヶ平の村である。

とある板葺屋根の下から、突然火がついたような産声が聞こえてきた。男児誕生である。赤ん坊の父は、多分材木の川流しのために、上高地入りしていたのではなかろうか。父の名は(有馬)又七。男児は次男で名を嘉門次とつけられた。ときに弘化四年(一八四七)十月十四日。のちにこの子が、日本アルプスの名とともに世界に知られる名案内人になることなど、誰も予想することはできなかった。

坊主の岩小屋の記念撮影 右・ウェストン 中・根本清蔵 左・嘉門次

嘉門次は桑を摘みに行ったり、石の多い畑を耕す母に背負われて育った。山あいの村の生活は厳しく、栄養の充分にとれないような食生活であったろう。この子の背丈はあまり高くはならなかった。家から数十歩も歩けば山である。獣を見ることも木の実や草の芽を食べることも、みなこの山で覚えた。

十二か十三の夏から、父につれられて上高地に入り宮川のほとりにあった杣小屋で、杣たちとの生活が始まった。ろくに仕事の出来ない年頃だから、五分杣といわれて主にカシキ(炊事係)の手番をしたのである。口数の少ない素朴な少年の眼に、イワナやカモシカなどの山の動物たちが新鮮に見えた。仕事の合間にイワナを釣ることを覚えた。他のだれよりも上手で、杣たちもその腕をほめたたえた。どういうきっかけで鉄砲にさわるようになったか不明だが、好奇心の強い少年嘉門次は、機会さえあれば山を歩いたり、鉄砲の練習をしたのであろう。嘉門次がカモシカ猟にでたのは、十四才のときで槍沢ではじめてカモシカをしとめた。とても嬉しかったと語っている。

釣りと狩が上手で、いやな顔ひとつしないできびきびと働く少年は、杣たちから可愛がられた。十七・八才の頃には、藩の役人で杣小屋や伐採現場を見廻る斧頭の助手となって、上高地を縦横に歩きまわっていたらしい。山での経験は次々に積み重ねられて、立派な青年に成長した。杣というよりも猟師の腕をみがいたといった方が適切であろう。

明治元年、維新の風は山間の村々でも、まともに受けたにちがいないが、二十二才になった有馬嘉門次は、仲だつ人があって島々の御判屋とよばれる上條孫次良の養子となって、長女のさよと結ばれた。御飯屋かつて高札場の管理をしていた家柄で、主人は豆腐屋をしていてかなり小銭を持っていたようで、養蚕もしていた。最初の二・三年は、山へも入ったが、かなり家にいる日数も多くて、蚕に与える桑などよく摘みに出たらしいが、蚕は嫌いで手を出すことがほとんどなかった。

明治四年に、たった一人の子嘉代吉が生まれた。明治八年頃から国有林は伐採を禁止されたため多くの杣たちが生活に困ったようで、養蚕やわずかに払下げられる材木で、白木類の加工をおこない、また民有林の伐採くらいしか仕事がなくなってしまった。

山へ行けなくなった嘉門次の心はふさいでいた。こんな彼に金にならないが山へ行く機会が与えられた。山林取締役の見廻りや、農務省山林局の手ではじまった。国有林の境界立ての測量の手先となることであった。人に悪い印象を与えない嘉門次は、これらの役人たちからも重宝されたにちがいない。カモシカやライチョウを撃ち、イワナを手早く釣る技術が、身を助けたのであろう。

明治十三年、彼は明神池の近くへ小さな小屋をもった。間口九尺、奥行き二間と初期の登山者の眼にふれた小屋が、その小屋かは不明であるが、ここに嘉門次は安住の地を見出したのではなかろうか。この頃には牛番小屋もなく、上高地温泉もなくて、無人の杣小屋や測量のための仮小屋はあったにしても、常時煙のあがる小屋は、嘉門次のそれだけであった。

坊主の岩小屋のウェストン夫人

上高地のでの彼の生活ぶりは、初期の登山者たちがいろいろと書いている。夏はイワナを釣り、秋から冬にかけてはクマやカモシカを撃って、かなりのかせぎをしていたように書かれているが、それはかなり疑問である。昔はイワナ七分に水三分と言われるほど、川にはうようよとイワナがいた。嘉門次が小屋を建ててから、登山客が泊まる温泉ができるまで二十四年、五千尺旅館の前進養老館ができるまでには三十七もの年月があるのである。島々まで背負いおろしたとしても、当時の島々周辺でもイワナはたくさんいたのである。

カモシカやクマは島々まで運んで売っていたようである。それらの肉はほとんど捨てたであろう。背負いおろした量はわずかではなかろうか。

ところが仕事は他にもあったのである。前にも述べたように、山林取締役官の見廻りがかなりあったし、山林局の調査測量はかなりの年月を要した。それに加えて陸地測量部の三角点の選点・造標の仕事も盛んで、これらの仕事のある間は、かなりの荷かつぎ人夫や案内が必要であって、上高地に住んでいて地形に明るい嘉門次の案内は、それらの一行にとって、欠かすことのできない存在であった。

嘉門次の狩猟上手は、当時の猟師の間では評判で、彼をしたった猟師が多かった。山での長年の生活の間に、獣の通り道や餌場などの習性や巣穴などを熟知していたし、梓川の流域ばかりでなく、高瀬川、黒部川、蒲田川の地域までの広範囲にわたって、尾根や谷すじにまで足をのばしていたのである。

彼には狩猟にまつわる逸話が多い。クマ狩りの好適期は、春の雪どけの頃である。穴に入っているクマを見つけると、穴の前に柵を結って騒ぎたてると、クマが出てきて柵をつかんで揺するので、そこを狙い撃ちするという。嘉門次の豪快なクマ猟は、みのを尻にあてて後向きに這いこんで行くと、クマが身をよせるので、その後側に這い込んで尻の方からクマを押し出して、外に待っている仲間が撃つのである。彼は右足が悪くびっこをひいていたが、登山者には雪崩でつぶされたときとか、凍傷にかかったためだとか、ごまかしていたそうだが、真相はクマ狩りにいって穴からクマをおびき出した折に、噛みつかれた傷がもとのようである。彼はいつも二〜三匹の犬を飼っていて、大切にしていたが、この犬がいるおかげで良い狩ができたのである。一人でも数々の獲物をものしたが、クマ狩りは二〜五人の仲間で連れだってやることが多く、獲物をしとめると家に集まって酒もりが始まる。クマの肉と酒のさわぎが一晩も二晩もつづくと、かなりの出費であったろう。嘉門次は後には体力のおとろえも手伝ってか、クマ狩りはしなくなった。彼の本質はカモシカ狩りであった。多い年にはひと冬で五十頭もしとめたことがあるといい、少なくとも二十五頭はくだらなかったという。

クマ狩りも同じだが、カモシカ狩りでは犬がものをいう。犬が巧みに追いたてて立ちすくむところを仕留めるのである。またこの猟は二・三人で組んでやることが多く、上條万作・小林吉作・内野常次郎・大野庄吉などとよくチームを組んで出猟していた。彼のとった毛皮は、毛並み色艶の良いものばかりで、銃弾の痕もひかめな場所にあったという。

大正の頃で米が一升十二・三銭の頃に、カモシカの毛皮は、若いものが二円から六円。大きなものは十円から十二円で売買され、クマの毛皮と肝は、一頭七十円にもなったというが、これは嘉門次たち猟師の手どりではなく、多くの猟師たちは食料や生活用品のつけ買いや前借りのため、その五分の一も手に入れば良い方であったという。

カモシカ・クマ・サル・タヌキ・ウサギ・キツネなどの狩猟の対象になる動物たちの毛皮は、春から秋の間は良質のものではなくなるので、この季節にはイワナ釣りが対象になる。イワナ七分に水三分というほど、梓川水系には魚が群れていた。元来イワナは悪食でどんな餌にもとびつくが、人かげや竿の上げ下げにも敏感で素早く逃げまどうので、釣り人としてはイワナの生態や習性を研究して、必ず釣れるとうポイントを的確に、針を投げこむのである。嘉門次の釣りは達人であった。彼をたずねた登山者たちが、口をそろえて言うようにそれは上高地の風景であった。

彼は梓川のあちこちを釣り歩いたが、やはり一番好きな場所は明神池であった。この池に筏を浮かべていることが多かった。この筏が代物で、ものすごく雑につくってあり、嘉門次以外の人が乗ることができないようになっていたとも言われている。釣りあげたイワナは、一匹ずつ串にさして火のまわりに立て、その後いろりの上の火棚にのせて乾かした。その干したものは貴重で里へ背負いおろして、祭りや行事のときなどに食膳にのせられたのである。

彼と彼の息子嘉代吉は、よく一緒に釣りをしていたが、竿で釣るほかにささり網(さし網)も使った。池に網を張っておいて、竿の先に獣の皮かぶどう蔓の皮をしばりつけたもので追いたてて、網へ追いこんで捕まえるのだと登山者に話をしている。

明治の末期から大正にかけて、イワナの値段の方は、嘉門次が語ったところを聞くと「わしぁ多くは池に筏を浮かべて釣ったり、淵で釣ったりするんね。そうせ、たんととれて二円五十銭、まあ一円五十銭か二円つうもんせ、きょうは一人で五十五尾、金で一円五・六十銭ぐれえか。二日も三日もほしたもなぁ百匁五十銭だし、一日ぐれえの生干しは三十銭、生は十五銭に売るだんね」

日本山岳会の創始者の一人高野鷹蔵氏が、ある日嘉門次小屋を訪ねた折に、乾かしていたイワナを売ってくれとたのむと、秤がないから売れないと断られ、目分量で良いから売ってくれと再度たのんだら、多ければ俺が損をするし少なければあなたが損をするからやめてくれと断られてしまった。という有名な話がのこっている。嘉門次が頑固一徹な面をあらわしているが、決してケチではなく、案内をしながら手早く釣ったイワナが食事どきにふるまわれ、客が代金をというと遊びで釣ったもんだから要らないと断ったという話も伝わっている。カモシカやクマなどは、毛皮を剥いで乾かしたものを運べばいいわけだが、イワナとなると乾かすばかりでなく、毎日釣るのだからその量もかなりになるはずなのに、嘉門次が島々へおりてくるのは、年に二、三回と村の人々がいうのでは、彼の釣ったイワナはいったいどんな方法で、どこへ売ったのだろうか。とけない疑問である。

この池の岩魚とりてはくらすてふ

嘉門次の爺や神さびぬらし       空穂

小屋ひとつ人ひとり犬三匹、静かな上高地に、時代が新しい人々を送りこんできた。まず明治十八年(一八八五)牧畜新興の波にのって、上高地に牛や馬の放牧が始まった。牛番小屋に番人が住みついた。嘉門次が小屋を建てたころから、政府の招いた教師や技師それに牧師などの外国人が、スポーツとしての登山のために、入山してきた。嘉門次が山に精通していることは、入四ヶ村でも一番であったから、島々へやってきたり蒲田の谷から入山してくるこれらの人たちの中の、幾組かを山に案内して歩いたことはまちがいのないことと思う。

河童橋の記念撮影 右から清蔵・嘉門次・ウェストン夫妻

明治二十六年(一八九三)嘉門次は四十五才になっていた。体に力がみなぎっていた。八月嘉門次にとって、山案内人として世界にその名をとどろかす最初の登山が、ウォルター・ウェストンと二人でおこなわれたのである。出会いはあまりほほえましいものではなかった。というのも山へとはやるウェストンの気持ちと、梓川が雨のため増水しているからと慎重な嘉門次の意見が合わなかったからである。しかし二十五日の宮川のコルーひょうたん池ー下又白谷ー前穂高岳のルートで、登頂に成功したあとは、もうごきげんで嘉門次の登山案内人の技術をべたほめにしている。一八九六にウェストン著「日本アルプスの登山と探検」が出版され、その中で著者は嘉門次を抜群の案内者として、ミスター・カモンジと書いている。

この本を読んだ日本の初期の登山者たちが、嘉門次の名を知ったのは当然である。次第に彼に案内を乞うようになるのが、明治四十一年ころからである。これは記録に残っていて現在確認できるものだけで、ウェストンを案内してから十四年ほどの空白期があるが、この間にも外人登山者やその他の登山者、陸地測量部の仕事の一部などと、山行を共にしていたことと思われる。嘉門次自身では日記をつけたり覚え書きをすることがなかったので推測の域を出ない。嘉門次の記録というのは、すべて彼を案内人として雇った登山者が、なんらかの形で報告出版したものだけがたよりなので、それが記録されない場合については、百年も過ぎた現在では追跡する手段もないのである。

明治四十一年(一九〇八)嘉門次六十才

七月、外人二名・日本人一名と槍ヶ岳、辻村伊助らと岳川谷から前穂高岳

八月、太平晟、夏目新次と槍ヶ岳

明治四十二年

七月、辻村伊助らと槍ヶ岳ー烏帽子岳

八月、鵜殿正雄・フィッシャーらを前穂高岳ー奥穂高岳ー北穂高岳ー槍ヶ岳

明治四十三年

七月、辻村伊助・三枝威之助らと霞沢岳

八月、小島烏水らと槍ヶ岳ー薬師岳

明治四十四年

七月、小島烏水と明神池ー明神岳

大正元年(一九一二)嘉門次六十四才

八月、ウェストンと北鎌尾根ー槍ヶ岳

大正四年

五月、シャウと前穂高岳

大正五年

七月、佐伯藤之助と明神岳

八月、槙有恒と穂高岳ー槍ヶ岳

大正六年(一九一七)六十九才

八月、藤山愛一朗・斎藤新一郎と穂高岳ー烏帽子岳

嘉門次の直弟子 常さんこと内野常次郎

記録に残る案内登山は、わずかの十八回でしかない。それも六十才という高年齢に達してからのもので、彼の本当に気力の充実していた壮年期のありさまは、不明である。しかし案内したどの登山者も、その足腰の達者さを驚きの眼で書いているのである。

彼の案内ぶりは、一徹で気のあわないものは、釣をしている方がいいからと腰をあげなかったし、賃金も平常時のイワナ釣りの稼ぎ高を基準にして要求したので、他の案内人よりも、ずば抜けて高かった。おまけに年をとっているからといって荷を背負うことは断った。

登山者たちは有名な嘉門次に案内してもらうのは、登山者としての誇りみたいなものとして、この条件をのんだが、ひとたび案内が開始されると、この親ほどの年齢の違う老案内人を、心から信頼してしまうのであった。

荷を背負わないと言いながら、四・五貫は黙って背負い断固たる自信にあふれて先頭をきった。永年山に住んだ経験が、どんな悪条件でも見事にこなし、細心の注意をはらって登山者をまもったのである。次に彼と同行した登山者たちの、嘉門次像をよんでみよう。

「彼は非常なすばしこっさで進んだ。彼の爪先と、角のように硬くて皺のよった指先を同程度に使って登った。ぬれていてねばりつく岩場には、彼の柔らかいわらじはよく食いついて、全く必要欠くべからざるものであった。」ーw・ウェストンー

「穂高の帰りに石が落ちて、先に下りて行く彼に当たりそうだし、見たところ彼の歩き方では、石もあまり落とさないから、僕が先に下りようと申し出たら、例のごとくからからと笑って、いくらでも落さっしゃるがいい、除けがあるで、あまり加減すると歩きづらいでな、わっはっは―」 ー辻村伊助ー

「嘉門次は今年六十三才だ、が三貫余の荷物を負うて先登する様は、壮者と少しも変りはない。」―鵜殿正雄―

「其渓流の徒歩、石上の飛行、之を見るに悠々遅々たる如くにてして、而も寸毫の無駄足なきため其捗取ること、予等が汗みづくになりての急行に勝れり。」―小島烏水―

「嘉門次は七十一才であるにもかかわらず、頭髪は濃く黒々としており、カモシカの毛皮の袖なし外套を着ている様子は、どうみても五十才を越しているとはみえない。」―H・E・ドーント―

とにかく案内を受けたもの、また逢って談笑をともにしたもののすべての人たちが、彼の性格を沈着冷静、剛胆親切、礼儀正しくて明朗、頑固一徹と口をそろえて敬愛している。また仲間や若者たちのめんどうをよくみた。内野常次郎も大井庄吉も息子の嘉代吉もすべて彼を手本にして、山人となったのである。有峰まで若い力強達と歩いたときに、下山後賃金をもらった彼等に、一晩泊ってから帰れとすすめたら、ここで泊まれば若者たちのことだから散財してしまうと困るからと、早々と立ち去った逸話も、そのことを物語っているようだ。

その嘉門次も寄る年波には勝てずに、大正六年を迎える。七月に当時慶応義塾山岳会の藤山愛一郎らを案内して、穂高・槍ヶ岳を案内して、穂高・槍ヶ岳を経て裏銀座を烏帽子岳にぬけた。この旅のときには少し体調を崩していたらしい。その帰り道に三日ばかり島々の自宅で休養して、上高地に登ったが、八月十九日ころ体調が思わしくないと、松本へ出て医師の診察をうけて、家に帰ってからは病床にふしていた。人々の看病の甲斐なく十月二十六日永眠した。時に満六十九才の秋であった。次に嘉門次の語った言葉を書きとめてみた。

「山のことは、山に聞くさ。それがいっちたしかずらー」

「わしぁ冬はけものを追っかけ、夏はイワナ釣りして、三十年もきれいな空気をすい、きれいな山を見ながら、めんどくせえ世をはなれた暮しをして、こんな山奥にすんでるがせ、頭いてえとか、腹がいてえとか、カゼひいたこたぁいちどもねえんね」

黎明記の登山者たちが、無口で重厚だとほめたたえ、うちにこもった誠意さ忠実さが、名実ともに、日本一の山案内と折り紙をつけた嘉門次は、黙って知ったかぶりを云わず、静かについてくる紳士といった人であった。

当時の鉄砲撃ちたちも、杣たちも、彼の人柄を知ったうえで、嘉門ぢっさと尊敬して呼び、教えをうけたものである。

島々におおきな家と妻子がありながら、一生のほとんどを上高地に寝起して、山野を愛したということは、どんな角度から観察しても、わがままいっぱいな変人としかうつらないのである。彼の名声と驚異にみちた生涯は、ほとんど家にいない主人をあてにせず、黙々と蚕を飼い、炭を焼き、山仕事にはげんだ妻きよと、その子嘉代吉の多大な労働なくして、嘉門次は語れないのである。

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